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千利休ってどんな人だったの?戦国とお茶の深い関わり

千利休ってどんな人だったの?戦国とお茶の深い関わり

千利休は、「侘び茶」を完成させた人として有名であり、学生の頃授業でも習った記憶があるのではないでしょうか。この千利休はどのような人だったのか、詳細を知る方は少ないのではないかと思います。
お茶を知る上では外せない人物の一人なので、ここでは千利休について詳しく見ていきたいと思います。

堺(大阪)生まれの魚問屋の長男

千利休は、1522年(1521年の説も)、和泉国の堺の魚問屋の長男として生まれました。本名を、田中与四郎と言います。その頃の堺は、貿易で栄えていた都市で、戦国期でも大名に支配されることなく商人達が自治を行うような土地で、茶の湯は最高級の文化とも言えるものでした。

南禅寺の本山である京都郊外にある大徳寺において「宗昜」という法名を受け、店の跡継ぎのために16歳で茶の道に入ります。そして、17歳の時に北向道陳に、19歳の頃には武野紹鴎に師事したといわれており、その頃からは「千宗昜」と名乗っていたようです。ただ、このことは史料では確認することができないため、確かな部分は分からないままとなっています。

23歳の頃には、茶人としての才能を開花させ、最初の茶会を開いたとされています。

千利休と名乗ったのは、1585年の禁中茶会という皇居での茶会に参加する際、町人の身分では参加が不可能だったため、正親町天皇から与えられた「利休」という居士号をもらってからだと言われています。ちなみに千というのは、千利休の祖父である田中千阿弥に由来するとされています。

千利休が師事した武野紹鴎は、その心の師である村田珠光(侘び茶の祖)が説いていた「不足の美」という、不完全だからこそ美しいという思想をもとに、日常生活で使用している雑器などを茶会に用いることで、茶の湯の簡素化に努めていました。そして、「侘び(あっさりしていてしつこくないこと)」を目標としていたのです。

千利休は武野紹鴎の教えからさらに、侘びの対象を茶道具だけではなく、茶室の構造から作法、様式にまで拡大させました。そこから茶道具を創作したり、これ以上何も削れないという状態まで無駄を削った侘び茶を完成させたりしました。

織田信長と千利休

織田信長は、1568年に、誰の支配も受けていなかった堺に目をつけ、圧倒的な戦力で堺を直轄地としました。そして、「名物狩り」とも言われる、強制的に茶道具を買い上げ、文化までをも自分の手のうちにしてしまおうとします。茶の湯は特に利用され、信長は許可を与えた家臣にのみ茶会を開催することを許し、褒美に高価な茶碗を与えるなどしていました。
その後、千利休が茶頭(茶の湯の師匠のような存在)として織田信長に重用され、1573年(51歳)と1575年(53歳)に、織田信長が主催した京都での茶会に参加し、茶の湯の指南役として一目おかれるようになります。
千利休が60歳の頃、京都の本能寺にて織田信長自慢の茶器が疲労される茶会が催されましたが、その夜明智光秀の謀反によって、命を落とします。
そして豊臣秀吉がその後継者となります。

豊臣秀吉と千利休

後継者になった秀吉は、茶の湯にとても熱心だったと言います。茶の湯が好きな武将は次々に千利休に弟子入りし、数多くの弟子が誕生しました。政治の面でも豊臣秀吉の信頼を得ていた千利休は黄金の茶室を設計(利休が理想とするものとは正反対のもの)し、大友宗麟に「秀吉に意見できるのは利休しかいない」と記されるほどになっており、秀吉は千利休の意見には耳を傾けたと言われています。
1587年には天下統一を果たした豊臣秀吉は、北野天満宮にて茶会を開催します。公家・武士だけではなく、町民など身分関係なく参加を許した行事となったのですが、実はこの茶会も千利休が手がけたものでした。

このようにして茶の湯と政治的な関わりで活躍してきた千利休でしたが、政権に関わりすぎたことで千利休に対する反発が強まってしまいました。
堺に対して税を重くするなどした秀吉との関係も悪化しはじめ、茶の湯に対しての理想の違いも目立ったことで不仲になっていき、1591年の茶会では、黒を嫌う秀吉に黒楽茶碗で茶をたてて秀吉に出し、その後自宅謹慎を命じられました。さらに同年、秀吉の怒りを買うことが重なり、千利休に対して切腹が命じられ、70歳で亡くなりました。

おわりに

茶の湯を通して全国に名を轟かせた千利休は、このような人物でした。
どうして切腹を命じられることになったのか、はっきりとした理由は分かっていないと言われています。
ちなみに、武士だけに許されていた切腹を利休が許されたのは、武士階級としてみなされていたためだそうです。

参考リンク

<千利休屋敷跡>茶道聖地にもてなしの杜(YOMIURI ONLINE)